こんにちは。サボテンです。おサルの隣人としてこのブログに借りぐらししています。
前のエントリーで少し話したように、私自身もおサル同様留学して華々しくグローバル賃金を稼ぐ予定()であったのですが、天変地異、奇想天外、身から出た錆、蛇に睨まれたカエル、、、まあ色々なことがあって、日本にとどまっております。
ただ、ブログ管理人のご好意で居座らせてもらえるということで、遠慮なく我が物顔で筆を取ろうと思っています。
前置きはそれくらいにしまして、今回の記事の目的は二つあります。
- 名前決めたよ
- 今書いてみたいこと
列挙するほどのものでもなかったですが、一つ一つ書いてみましょう。
ということで、とりあえずサボテンと名乗っておくことにしました。
理由は特にありません。
強いて言うならば、今私の目の前には二匹のかわいいサボテンが。インテリアとは全く縁のなさそうな兄が、ある日唐突に買ってきたサボテン。すでに一匹は腐った昆布のような色になってしまったサボテン。サボテン。サボテン。
まあ、名前に意味を込めすぎてしまうと後々後悔しますからね。これくらいが丁度いいと思います。アルプスの山にはサボテンは生えてるのかしら。
本来予定していた海外での鮮やかな経験は期せず得られなかったわけですが、どんな場所にいても自分次第で物事を深く深く経験できるのが人間の素晴らしいところ。今自分が気になっていることをとことん考えて、読者の皆さんと共有したいと思います。
色々書いてみたいアイディアはあるんですが、例えば今思いついたのは
「外国語を話すということ」について。
私は研究を英語で行っていることや、英語を教えているということもあって、それなりに英語を使うことに抵抗はありません。それどころか一部の独り言や愚痴は英語でしゃべったりします。
もちろんこれは英語力を落とさないようにということもあるのですが、一方で自分の中では英語で考えた方が精神的に抵抗なく考えられたり、気持ちが表現できたりすることがあったりもします。
かぶれている、と一言で片づけてもいいのですが、結構これは奥の深い出来事だなーと思っています。
人は言葉を学ぶとき、その言葉は必ず文化的重みをもって学ばれます。優しい言葉、温かい言葉は温かい体験と一緒にどんどん丸みを帯びていきますが、言語体験はそれだけではありません。ある言葉は社会的な抑圧や差別的な感情に絡み取られてギトギトになってしまうこともあります。
個人的には外国語っていうのはそういう言葉から私たちを解放してくれる力を持っているのかもしれなナーなんて思っています。
変な話、界隈で良く短期留学で外国かぶれした人々が揶揄される現象が後を絶えないのは、そういう原理が裏で働いていることと大きくかかわっているのだと思います。
ただし、解放されてめでたしめでたし、ということであればなんの深みもうまみをありませんね。
結局のところ、解放される感覚というのは一時の快楽にしかすぎません。英語には英語の重みが英語圏の中でおどろおどろしく生み出されていて、いつかはそうしたところと向き合わなければいけない時が来ますし、一方で英語になじめばなじむほど自分の母国語が日本語であることが突き付けられ、言語感覚の起源と向かい合わなければいけない時が来るのだと思います。
そんなこんなで、外国語を話すということは自分の人格形成や心の成長と密接に関わっていることだといつも思っています。
こういうことを知ったからということで何になるかといわれれば、なんとも言えないのですが人生を豊かに生きるソフトスキルとしてこういう思考も必要になるのだと信じています(信じ切れてない)。なんとなく文章の雰囲気でもわかってもらえれば!
もう疲れたので詳しくは書きませんが後は
- ハードワークをこなすための工夫
- 日常生活を深く生きるということ
- 映画論評
- ヨガ的思考と論理的思考
- 「社会を知らない」とは何を知らないことなのか
なんていうことにも興味があります。
人文学生の院生なので、おサルさんとはだいぶ指向性が違ってしまいますが、多様性の傘に守られながら書きたいものを書いていけたらいいかなーと思っています。
それでは。
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